パガニーニの生涯




※必ずしも情報は正しいとは限りません。
西暦&年齢出来事
1782年 〈0歳〉10月27日、イタリア北西部の港町ジェノヴァに生まれる
1787年 〈5歳〉父にマンドリンを与えられる。
1786年 〈6歳〉ヴァイオリンを独学でひっそりと覚え、簡単な即興曲なら弾けるようになる。
1789年 〈7歳〉父から正式にヴァイオリンを習いはじめる。
1790年 〈8歳〉ロラに弟子入り
1791年 〈9歳〉ヴァイオリンソナタを作曲したが、演奏不能で破棄。
1793年 〈11歳〉演奏家としてソロデビュー。ジェノヴァで初の公開演奏が成功する。
パルマでギレッティに作曲を習う。
1797年 〈15歳〉ジェノヴァに帰る。たくさんの曲を作る。ヴァイオリンの演奏技術が完成。
1799年 〈16歳〉父から離れて広い範囲での演奏活動を開始する。北イタリアへ最初の演奏旅行。
1801年 〈19歳〉ルッカの宮廷オーケストラに加わる。
フィレンツェのギター弾き貴婦人と同棲を始め、4年もの間姿を消す。
ヴァイオリンを放棄してギターに没頭。ソナタ集op.2とop.3を作曲。
1804年 〈21歳〉ジェノヴァに帰ってきて再びヴァイオリンを弾く。
1805年 〈23歳〉演奏活動を再開する。
1806年 〈24歳〉ナポレオンの妹・エリーゼに仕える。
1807年 〈25歳〉「愛の二重奏」を初演。なぜかエリーゼ、嫉妬に狂う。
8月15日、ナポレオンの誕生日を祝して「ナポレオン・ソナタ」を初演する。
1810年 〈28歳〉ナポレオンの結婚を祝して「マリア・ルイーザ・ソナタ」初演。「ヴァイオリン協奏曲第1番」初演?
「変奏付きポラッカ」と「ヴァイオリン協奏曲第2番」作曲?
1811年 〈29歳〉1月22日、ナポレオン家と訣別。行方不明となる。
1812年 〈30歳〉ミラノの演奏会で大成功を収め、世界的名声を得る。
1813年 〈31歳〉ミラノにて出現。「魔女たちの踊り」を演奏し、本格デビュー。
1814年 〈32歳〉ロッシーニと出会う。
1815年 〈33歳〉ヴァイオリン協奏曲を作曲。(6番?
1816年 〈34歳〉各演奏家と競演。「モーゼ幻想曲」を作曲?
1819年 〈37歳〉3月29日、ナポリにてヴァイオリン協奏曲第1番を演奏。
ロッシーニの主題による3つの旋律の作品を出版?
1820年 〈38歳〉ヴァイオリン独奏のための《24のカプリース》を出版。
ローマでロッシーニを助ける。彼(ロッシーニ)のオペラ「マティルデ・ディ・シャブラン」の初演を指揮。
1821年 〈39歳〉「バイグルの主題によるソナタ」初演?
1822年 〈40歳〉この頃、アントニア・ビアンキと知り合い、同棲を始める。
1825年 〈43歳〉息子・アキレ誕生
1826年 〈44歳〉ヴァイオリン協奏曲第2番ラ・カンパネラを演奏。(⇒初演?
1827年 〈45歳〉黄金のスプール勲位を授かる
1828年 〈46歳〉ウィーンにて3月29日から8月まで、10回もの演奏会を開き、パガニーニ・フィーバーを巻き起こす。
6月18日、オーストラリア国王の前で演奏。「マエストーサ・ソナタ・センティメンターレ」初演。
6月24日、ホ長調の協奏曲を演奏したと手紙にあり、(第3番?)
8月4日アントニア・ビアンキと離婚。この頃、「チェントーネ・ディ・ソナタ」を作曲。
1829年 〈47歳〉ワルシャワで演奏会を開き、「ワルシャワ・ソナタ」初演。同時に「ベニスの謝肉祭」も演奏?※ベルリンで演奏活動。※
1829年 〈48歳〉フランツ・リストと出会う。
ギタリストのルイジ・レニーニャと競演。
「ギターのためのグランドソナタ」を作曲。
手紙に「ヴァイオリン協奏曲第4番」の完成を伝えるものあり。
1831年 〈49歳〉「ヴィオラと管弦楽のためのソナタ」完成。
フランツ・リストがヴァイオリン協奏曲第2番&4番を聴き「ピアノのパガニーニ」になることを決意。
1832年 〈50歳〉このころから健康状態が悪くなる。
「常動曲op.11」を作曲。
1833年 〈51歳〉1月22日、ベルリオーズの幻想交響曲を本人に“ヴィオラのための作品にしてくれ”と依頼するもその出来映えに納得いかず、訣別。
フランツ・リスト、ラ・カンパネラのピアノ曲へのアレンジを開始する。
1834年 〈52歳〉再びイギリスにわたる。
1835年 〈53歳〉「ジェノバ民謡バルカバによる変奏曲op.14」を出版。
「常動曲op.11」のギター伴奏版が完成する。
1837年 〈55歳〉7月9日、トリノにて最後の演奏会。
パリの新しいカジノに投資するが失敗。
1838年 〈56歳〉手紙でソナタ「春」を作曲中であることを伝える。
12月16日、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」を聴き、ベルリオーズと和解。2万フランの援助をした。
1840年 〈58歳〉5月27日、イタリアのニースにて死去。死因は咽頭結核。
悪魔と契約していたという疑惑により教会から埋葬許可が下りず、遺体は数日間ホテルに安置され見物人が列をなす。



正確な生年月日は不詳だが、

伝説のヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニはさそり座の星の下、
西暦1782年10月27日、現世に降臨した、とされる。

それはイタリアのジェノヴァ、かの“コロンブス”が生まれた場所近く、
パッソ・ディ・ガッタモラ(訳:黒猫通り)37番地にある古い家の7階だった。

父の名はアントニオ(Antonio)、母の名はテレーザ・ボッチャルド(Teresa)。
一方は現実的、もう一方は幻想的な思考の両親は、
どちらも熱心なアマチュア音楽家であった。

音楽を正式に習ったことは一度もなく、楽譜さえ読めない二人だったが、
歌手としての才能に恵まれていたテレーザは容姿も美しく、
たった一度聴いただけのメロディを記憶を頼りに寸分の間違いもなく綺麗な声で歌うことができ、
そしてアントニオはマンドリンで、その歌に伴奏をつけることが出来た。
彼はその他にヴァイオリンも自己流で練習していた。

いつも夕方になるとアントニオは、後ろに美しい妻・テレーザを従えて、
ヴァイオリンを腕に、マンドリンを肩にかけて酒場に現れるのだった。



2年ごとに出産し6人の子をもうけた若くて無教養な母・テレーザは信心深い女性であり、
ときに「予言的な幻視や夢」、「天使のおつげ」などを口にした。

―炎上する劇場の中、角飾りをつけたギタリストの伴奏の横で、ひとりのヴァイオリニストが演奏している
「ニコロは世界最高のヴァイオリニストになるであろう」と、天使が約束してくれた―


などである。

そのせいもあってニコロは幼少の頃より、すでに周りから
「堕天使」「魔女の悪たれ息子」「南の魔術師」と呼ばれていた。

一方、父親のアントニオは、ロトくじの大好きな根っからのギャンブラーだったが、
仕事が休みの日には自分の息子たちに読み書きを教えたりマンドリンを聴かせたりした。

そんな中、

まずニコロのとてつもない潜在能力に気付いたのも彼だった。
しょう紅熱で死にかけたばかりの息子に、マンドリンを与えたのである。
繊細で敏感な心とデリケートな身体を持つニコロは、たちまち
フレットの指板を完璧に熟知し、大人のマンドリン奏者と肩を並べるほどにまで達した。
それは、わずか1年半後のことであった。

正式に父からヴァイオリンを習いはじめたのは7歳からとされているが、
すでに6歳の頃、父の目を盗んでヴァイオリンを持ち出しては、ひっそりと練習していた。
ヴァイオリンに触れて数週間も経たつと、母の歌をまねて演奏したという。

ある日、いつものようにヴァイオリンを練習していたニコロの前に、父があらわれた。
おどおどしている息子の目をじっとみつめると、やがて、今の曲をもういちど弾くように命じた。
この日からアントニオはニコロにヴァイオリンを教えるようになったのである。


あくまでギター弾きでしかない彼のヴァイオリン教育だったものの、
ニコロのヴァイオリン演奏能力は、加速度的に上達していった。

やがて、

我が子・ニコロの持つ人並みはずれたアクロバティックな“演奏”と、
いかなる手段を使ってでも弾こうとするその“意志”に、
しょせんはアマチュア音楽家でしかないアントニオは動揺した。

もはや自分の手には負えず、息子のヴァイオリンが大人の領域の“それ”であると確信した父は、
親友でもあったジェノヴァ劇場のヴァイオリニスト兼指揮者、
ジョヴァンニ・セルヴェット(Giovanni Servetto)の元へ連れて行った。



「正式なヴァイオリン奏法」を師・セルヴェットに学びはじめてからというもの、
楽譜の読み方、音階や和音、音域を覚えるのに、さほど時間はかからなかった。

そのおかげでニコロは、楽譜を見て練習できるようになったが、
やがて使用している練習曲に物足りなさを感じ始めると、
誰にもマネできない困難な技術・奏法をみずから考え出すようになった。

それを見て驚いたセルヴェットは、自分の職場に連れていきその横で弾かせるようになった。
ニコロが担当するのは第2ヴァイオリンだったが、決して拍子をはずすようなことはなく、
それどころか曲の繰り返しの際には、堂々と第1ヴァイオリンのパートを弾いていたという。

彼の才能はとどまるところを知らず、まるで人智を超えた自然発生的な要素をあわせもち、
その演奏能力は常軌を逸し、本人でさえ自覚せずに何の努力も無く発展していった。

そして、わずか数ヶ月のうちにいかなる楽譜をも初見で弾けるようになり、
ヴァイオリンソナタさえも作曲してしまったその少年を教えることは、
もうそれ以上セルヴェットには無理だった。

その“驚異的な子供”は、今度は若い同業者の
フランチェスコ・ニェッコ(Francesco Gnecco)に引き渡されることとなった。

2人目の師となったニェッコもすぐにニコロの才能を認めた…、しかし
作曲家として忙しかった彼はほとんどなにも教えることが出来ないまますぐにその少年を、
ジェノヴァで最高のヴァイオリン奏者ジャコモ・コスタ(Giacomo Costa)の下に送った。

( 師匠の話をあまりしたがらないパガニーニだったが、後に
「ニェッコは自分の音楽に多少の影響を与えている」と語った )


〜続く〜
(文書作成中)